アサシングリードでもお馴染み! 実在した? 『暗殺教団』の驚くべき正体と起源!
- 2021.05.07
- 事実は小説よりも奇なり

どうも、さかいです!
皆さんは殺し屋や暗殺者と聞いて何を思い浮かべますか?
なかにはフィクションの中にのみ存在すると思ってる方もいるかも知れません。
今回は、そんな実在したかも知れない『謎の暗殺教団』の真実について深掘りしていきたいと思います。
概要

暗殺教団は、イスラム教・シーア派の分派イスマーイール派に対する幻想的イメージに彩られた中世ヨーロッパ史料および東洋学、文学での呼称とされています。
神秘主義的カルト教団が存在し、彼らがアッバース朝、セルジューク朝とその諸アターベク政権、十字軍の要人らを狂信的に暗殺していったという伝説が根幹となってます。
トップである要人らを意識的に狙うことで、組織の壊滅を図るといった戦術を駆使。
現代でも通ずる手法を取っていました。
史料的制約から19世紀には東洋学者らによってハシーシュを用いる教団という意味が付加された上で史実として扱われるようになりましたが、20世紀半ば以降、実際のニザール派の活動とは著しく乖離した伝説であることが判明しています。
また、この伝説の中の教団「ハッシャーシーン」が英語やフランス語で「暗殺者」を意味する「アサシン」の語源となっていることは有名。
歴史としてではなく、おとぎ話や都市伝説などの類いとして扱われることが多く、未だ謎に包まれた史実のひとつになっています。
『秘密の園』伝説

「秘密の園」伝説は、アサシン教団伝説とは別にヨーロッパに伝えられ、のちに複合するようになる伝説です。
まず、山中に楽園のような秘密の庭園を築いた老人が、里の若者を連れてきてこの庭に遊ばせ、秘密の薬を調合して楽しませます。
そのうえで老人は、若者にある陰謀に類するような使命を与え、再び戻りたければその使命を達成せよといって、目的を果たさせていくといったもの。
下界では手に入り難い麻薬性の薬物に溺れさせるという点が重要なモチーフとなっているようです。
このような中で老人が、十字軍に「山の老人」と呼ばれたラシード・ウッディーン・スィナーンと結びつけられ、「山の老人」伝説となり、さらに十字軍によって伝えられた暗殺教団の話と複合されていきます。
こうして秘密の園をもつ教団とその指導者(=「山の老人」)、若者の遊楽と鍛錬、そして十字軍やセルジューク朝などの要人暗殺の指示、というような現在よく知られる形に近くなっていきます。
またニザール派の城砦は主に山城であったため、いつしか「山の老人」はニザール派のフッジャ(指導者)と重なり、やがてはニザール派の中心・イラン北部アルボルズ山中・アラムート城砦のハサネ・サッバーフとその後継者たちと同一視されていくことに。
この流れを後押ししているのがマルコ・ポーロの伝える「山の老人」伝説です。
これは
「教団の指導者「山の老人」が大麻によって若者を眠らせて秘密の園に連れこみ、歓楽を極めさせる。そののち再び麻薬で眠らせると彼は元の村にいる。ここで園への帰還を望む若者に老人への忠誠を誓わせて暗殺を行わせる」
というものです。
しかし、マルコ・ポーロの「東方見聞録」自体、その内容の信憑性が疑われており、この伝説も尾ひれがついたか、あるいは眉唾である可能性が高いとの見方が強いようです。
そもそも、使いものになるかどうかも分からない素人を町で適当にスカウトしてきて、目的である暗殺に向かわせるという非常にコスパの悪い手法を取っており、これを果たして合理的と呼ぶのかどうか。^^;
いくらなんでも回りくどすぎます。(笑)
『暗殺教団』の史実化

18世紀以降の東洋学の高まりで「暗殺教団」は多くの研究者の関心をひきつけ、アラビア語史料を用いた研究によりニザール派こそが「暗殺教団」と呼ばれた集団であったと同定されることになります。
その上で融合しつつあった十字軍起源の「暗殺教団」と「マルコ・ポーロ」などの伝える「山の老人」伝説は完全に結合され、さらに大麻吸引のイメージが付され学問的装いをもって伝説が歴史に至ってしまいます。
この過程でもっとも大きな役割を果たしたのが、シルヴェストル・ド・サシーが1809年に発表した論文。
ド・サシーは、それまでの東洋学での暗殺教団の起源・活動関連諸説を否定、アブー・シャーマの年代記写本などを用いて、十字軍史料における「Assassini」、「Assissini」、「Heyssisini」など「assassin」の類語がアラビア語に由来するものとしました。
すでに複数のアラビア語史料でニザール派を「ハシーシュ」と呼ぶことが確認されており、ここに「暗殺教団」がニザール派と同定されます。
さらにド・サシーはアラビア語「ハシーシュ」が大麻を意味することに着目。
マルコ・ポーロの「山の老人」伝説のヴァリエーションを学術的裏付けの形でニザール派に結びつけます。
使命達成によって行くことの出来るとされる(死後の)楽園をイメージするものとして、刺客らに対し秘薬として麻薬が用いられたのであろう、というものです。
暗殺者=麻薬中毒という説も多く行われましたが、大麻を用いた、という点では一致が見られています。
それらを集大成してフォン・ハマー=プルグスタールが最初のアラムート期ニザール派通史を書いたのもこの時期で、同書は1930年代までニザール派研究の基本として参照されることになります。
歴史から伝説へ

20世紀初頭以降、中央アジアやインドなどでのイスマーイール派史料の発掘により、上記のような見解に疑問が持たれるように。
史料によって、「ハシーシュ」が「下等な麻薬中毒野郎・暴徒」というような罵倒語であったであろうことが明らかになります。
当時のイスマーイール派、特にニザール派はその急進性から厳格なスンナ派からは忌み嫌われており、イスラームの顔をした裏切り者、果てはユダヤ教徒の魔術師とまでいわれていたといいます。
「ハシーシュ」の用例は、ごくわずかに北イランのザイド派史料でニザール派を「ハシーシュ」と呼ぶほかは、ほとんどがシリアに集中しており、「ハシーシュ」はシリア特有の罵倒語であったと考えられるようになります。
同時に「ハシーシュ」の語がイランのニザール派に用いられることもほとんどなく、シリア史料における「ハシーシュ」が指すものはシリア・ニザール派と考えられる点から、ニザール派そのものを「ハシーシュ」と結びつけた東洋学的見解の誤謬も指摘されています。
この点からも実際の大麻吸引から「ハシーシュ」と呼ばれるようになったわけではなく、「ハシーシュ」という蔑称がすでに成立しており、これをもってニザール派の呼称としたのであろうと考えられています。
暗殺教団伝説は、このように暗殺、麻薬、山中楽園、なぞめいた老人、十字軍といった魅力的モチーフに彩られたものであり、さらに学問的に裏付けられさえした点で東洋の神秘?の典型といえるものでした。
大麻との関わりが否定されても、なお、そのイメージは根強く、十字軍時代のシリアでの暗殺事件は直ちにニザール派が関わっているものとされがちですが、確定されているものは多くありません。

さてさて、いかがだったでしょうか?
以上のことから、それに限りなく近い組織は存在したものの、我々がイメージするような暗殺教団そのものの存在を裏付ける物証は何もないというのが実際のところのようです。
当時の宗教観や文化によって、こういった事実は間違って解釈されたり政治利用されたりと。
そういった背景もあったのかも知れません。
しかし、もし本当に暗殺教団が実在していたら?
むしろ現代の解釈の方が間違っていて伝説の方が正しかったら?
彼らの遺伝子を継ぐ者たちが今も尚、裏社会で暗躍していたら?
そう考えたら何だかワクワクするしロマンがありますよね。^^;
あなたはどう感じましたか?
参考文献:Wikipediaより
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