【手口別】ファブルは実在した!? 世界で実際に起きた暗殺 7選

【手口別】ファブルは実在した!? 世界で実際に起きた暗殺 7選

どうも、さかいです!

皆さんは暗殺と聞いて何をイメージするでしょうか。

フィクションの中での出来事を想像する方もいらっしゃるかと思いますが、悲しいことに暗殺という残虐非道な行為は古今東西、太古の昔から現実でも起こってます。

もっとも有名なところでは、ジョン・F・ケネディでしょうか。

今回は、そんな現実の世界で起こった暗殺について、それぞれ手口別に分けて、ご紹介していきたいと思います。

ライフル銃による狙撃

ジョン・F・ケネディ

暗殺直前のケネディ大統領夫妻。前列がコナリー・テキサス州知事夫妻。

リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫ビルの前を通過した時、およそ6 – 9秒の間にケネディは狙撃された。

狙撃の間リムジンの速度は時速14キロメートル(時速9マイル)から時速21キロメートル(時速13マイル)であった。

ウォーレン委員会はその後、3発の銃弾の内1発は車列を外れ、1発がケネディの頸部に命中、貫通のうえコナリーに被弾、最後の1発がケネディの頭部に命中し、致命傷を与えたと結論を下した。

ほぼ全ての者がケネディに少なくとも2発の銃弾が命中し、頭部への被弾で死亡したことを認めている。

犯人が最初の第1発目の発射後、群衆から様々な反応が起こった。

多くの者は後にクラッカーかアフターファイアーが鳴ったと思ったと証言している。

リムジンに乗っていた大統領夫妻や知事夫妻は一斉に右方向を向き、大統領は喉を押さえるように両腕を開き胸に当てて頭を下向きにして苦しい顔になり、ジャクリーン夫人は一瞬何が起こったのか判らず、大統領の顔を覗き込んだ。その前列では撃たれたコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、その声で運転していたビル・グリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認して前方を見た。

その時に一瞬彼はブレーキを踏んでおり、再び後方を振り向くとケネディが頭部に致命傷を負う瞬間を実際に目の前で目撃することとなった。

犯人が狙撃したとされる教科書倉庫ビル。

6階右端の窓から撃ったと目撃されている。

ケネディに命中した第2発目がケネディの右側頭部を貫通すると、彼はわずかに前傾し、彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになり、その後座席後方のクッションに垂直にぶつかり、すぐに妻のいた左側に崩れ落ちた。ジャクリーン夫人が動転して後方に目を移し、オープンカーの後方のトランクに這い出た(この時、夫人はトランクに飛び散ったケネディの頭部の骨片を手にしており、病院到着後に医師に渡している)。

1発目の直後に後続の車を降りて駆け寄った護衛官のクリント・ヒルが夫人が這い出るのとほぼ同時にリンカーン・コンチネンタルに追いつき、トランクに飛び乗って夫人を座席に押し戻し、パークランド記念病院へ向かうよう指示した。

テキサス教科書倉庫ビルの前は芝生の広場で通称ディーリー・プラザと呼ばれている。

この広場の道路をパレード中の大統領が市民の目前で撃たれてすぐにリンカーン・コンチネンタルが猛スピードで走っていくところを多くの市民が見て、エルム通りはパニックに陥り、パレードを見に来ていた市民が一斉にディーリー・プラザをかけ抜けていった。

地元ダラス警察の白バイ隊員がバイクを置いてその場で拳銃を取り出して構えたが、何がどうなったのか分からず警察官もパニックになっていた。

大統領が最初の弾を受けた時は喉に手を当てようと両腕の肘が上に向かっている。

背中の上部から喉仏に貫通したと見られているが、この1発だけの被弾であれば致命傷に至らなかったとも言われている。

2発目が大統領の右側頭部を貫き、大統領の頭部はひどく破壊され、これが致命傷になった。

狙撃の瞬間をたまたま8mmフィルムで撮影していたエイブラハム・ザプルーダーのいわゆるザプルーダーフィルムの映像では、被弾した際に大統領の身体が一瞬後方に動いて、その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、オズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。

ただし、ザプルーダーフィルムのコマ番号313では血しぶきなどの飛沫は前方に飛び散っている。

翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。

しかしこの調査報告に対して数々の疑惑と反証になるライフル銃の軌道や周囲の状況証拠や証言が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了。

数々の陰謀説が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。

至近距離からの射殺

エイブラハム・リンカーン

左からヘンリー・ラスボーン少佐、クララ・ハリス、メアリー・トッド・リンカーン、エイブラハム・リンカーン、ジョン・ウィルクス・ブース

南北戦争の最末期、1865年4月14日金曜日(聖金曜日)午後10時頃にワシントンD.C.で起きた暗殺事件。

最初のアメリカ大統領暗殺だった。

エイブラハム・リンカーン大統領はフォード劇場で妻メアリー・トッド・リンカーンらと『われらのアメリカのいとこ』の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースに撃たれた。

リンカーンは翌朝、1865年4月15日土曜日の午前7時22分にウィリアム・ピーターソン宅で死亡した。

リンカーンを殺害したブースは、俳優でアメリカ連合国のシンパであった。

ブースは同志であったルイス・パウエルに国務省長官ウィリアム・スワード暗殺も命じていた。

ブースの狙いはリンカーン、スワード、副大統領アンドリュー・ジョンソンを暗殺することでワシントンを混乱させ、合衆国政府(北部連邦)の転覆を起こすことにあった。

ブースはリンカーン暗殺には成功したが、政府に揺さぶりをかけるという彼の思惑は外れた。

スワードは負傷はしたが命をとりとめ、ジョンソン暗殺を命じられていたジョージ・アツェロットは暗殺に踏み切る度胸がなく、何もしないままにワシントンを離れた。

グリゴリー・ラスプーチン

グリゴリー・ラスプーチン

1916年12月17日、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺された。

しかし、暗殺犯がロシア有数の大貴族だったユスポフや皇族のドミトリー大公だったため、警察は満足な捜査を行うことが出来ず、ユスポフに拒否され暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかった。

さらに、ソビエト連邦成立後に捜査資料の大半が破棄もしくは消失したためラスプーチン暗殺の詳細は不明な点が多く、様々な逸話が残されている。

ユスポフの回顧録によると、ユスポフは青酸カリを盛ったプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したという。

しかし、ラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、ユスポフを驚愕させた。

ユスポフはラスプーチンにデザートワインを飲ませ暫く談議していた(政治もしくは神秘主義について話し合っていたという)。

数時間後、ラスプーチンが泥酔したことを確認したユスポフは応接室に向かい、ドミトリー大公からリボルバーを受け取った。

ユスポフは部屋に戻ると、背後からラスプーチンに向かって2発、発砲した。

銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫通し、彼は床に倒れ込んだ。

しかし、死んだと思われたラスプーチンは起き上がり、「目を見開き、自らの危機を知った」という。

驚愕したユスポフは階段を駆け上がり中庭に逃れ、騒ぎを聞いて駆け付けたプリシケヴィチがラスプーチンに向かい拳銃を4発発砲した。

4発の内3発は外れたが、1発は右腎静脈から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れた。

しかし、ラスプーチンは起き上がったため、神経質になったユスポフは靴でラスプーチンの右目を殴り、その後、ラスプーチンは額を拳銃で撃たれた。

同じ頃、周囲を巡回していた警官二人が銃声とモイカ宮殿から出て行く車を目撃した。

ユスポフたちはラスプーチンの遺体の処理について相談し、ペトロフスキー橋から遺体を捨てることに決めた。

プリシケヴィチは警官に「ラスプーチンを撃ったのは自分だ」と自慢したが、事態の重大さを認識すると「皇帝のためにやったことだ」と弁明した。

スホーチンはラスプーチンの生存を偽装するため、彼のコート、雨靴、手袋を着用し、ドミトリー大公とラゾヴェルトと共にプリシケヴィチの車に乗り込んだ。

スホーチンたちはプリシケヴィチの屋敷の暖炉でラスプーチンの衣服を焼却しようとしたが、プリシケヴィチの妻に拒否されたため、そのままモイカ宮殿に戻った。

モイカ宮殿に戻ったドミトリー大公は絨毯で簀巻きにした遺体を車に積み込みクレストフスキー島に向かい、橋の上から凍りついたネヴァ川に氷を割って開けた穴に遺体を捨てた。

ラスプーチンは、その怪しげな経歴・容貌・女性関係・最期に加え、ロマノフ朝との関連等からある意味では神秘的な人物、あるいは稀代の怪人物とも言え、それゆえにフィクションの世界では国境の別なく非常に人気の高い人物である。

特殊部隊による射殺

ウサーマ・ビン・ラーディン

ウサーマ・ビン・ラーディン

2011年5月2日、アメリカ軍による作戦が開始される。目的はあくまでビン・ラーディンの殺害であり、生け捕りはほぼ想定されていなかった。

一部報道によれば、これに参加したアメリカ海軍の特殊部隊 Navy SEALs を中心とした約15人(25人説もあり)のメンバーは、SEALsから派生した対テロ特殊部隊「DEVGRU」(デブグルー:海軍特殊戦開発グループ:旧SEAL Team6)のメンバーであったとされている。

また、アメリカ陸軍のデルタフォースもDEVGRUの支援にあたったとされている。

(ビンラディンはネプチューン・スピア作戦前から追跡されており,過去にデルタフォースが主導で行った捕縛作戦もある。)

隊員達は、情報担当のCIA要員が同乗するステルス型UH-60 ブラックホークヘリコプター2機とCH-47 チヌーク2機に分乗して(これらのヘリは「ナイト・ストーカーズ」の通称で知られる第160特殊作戦航空連隊が操縦を担当したとされる)、ビン・ラーディンと、その家族がいると推定された建物の敷地内に、ロープをつたって降下、建物を急襲して2階・3階部分には午前1時ごろ突入した。

側近が応戦したが、約40分の銃撃戦ののち邸宅を制圧。

ビン・ラーディンは武器を持っておらず、応戦したともしなかったとも報じられ、頭部と胸部を撃ちぬかれ死亡。

米軍は遺体を収容した。

他にビン・ラーディンの子息と思われる20歳の男性(後に、ハリド・ビン・ラーディンと判明)、また別に兄弟2人の男性と1人の女性も死亡。

女性は夫人の1人と報じられたが、後に「別人で夫人は負傷した」と訂正された。

アメリカ軍側に人的損害は出なかった。

その死はパキスタン政府当局によっても確認されている。

作戦後、妻のハイリア・サバルを含む親族複数名が拘束・連行された。

また、後に後継者となるハムザ・ビン・ラーディンは確認されなかった。

作戦中、ホバリングしていたアメリカ軍のブラックホーク・ヘリコプター1機が揚力を失い墜落したため、爆破処理されるというトラブルはあったが、すぐに代替のチヌーク・ヘリコプターが駆けつけ、プラン変更を行うことで作戦は続行された。

作戦は、アメリカ本国でもホワイトハウスのシチュエーションルームでオバマ大統領のほか、バイデン副大統領、ゲーツ国防長官、クリントン国務長官、マレン統合参謀本部議長らによって同時進行で見守られており、またCIA本部の会議室でも、パネッタ長官らがリアルタイムで監視していた。

いかなる方法で監視していたかについては公開されていないが、一部では映像が生中継で流れたとも報じられている。

作戦成功の報をパネッタより受けたオバマは ”We got Him” (奴を捕えた) と叫んだという。

アメリカ合衆国は、この作戦をパキスタン政府に事前に通告することなく行い、終了後に報告した。

アメリカはパキスタンだけでなく、他の国とも情報は共有しなかったとされる。

このためパキスタンのムシャラフ前大統領は、アメリカによる一連の作戦は主権侵害であると非難している。

ビン・ラーディンの死亡は、アメリカのCNNによって一報が伝えられ、全世界のメディアも追随することとなった。

その直後の5月1日午後11時半過ぎからオバマ大統領はホワイトハウスのイーストルームで深夜時間帯としては異例の記者会見を行い、ビン・ラーディンを殺害したことを正式に発表。

全国テレビ中継を通じて ”Justice has been done” (正義はなされた) と宣言した。

このニュースが伝わると首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が押しかけて歓喜の声をあげた。

自宅アパートのエレベーター内での射殺

アンナ・ポリトコフスカヤ

アンナ・ポリトコフスカヤ(2005年)

ロシア人の女性ジャーナリスト。

第二次チェチェン紛争やウラジーミル・プーチンに反対し、批判していたことで知られている。

ポリトコフスカヤはチェチェン共和国での取材を行っており、それに関する書籍を何冊か著述し、国際的に名声ある賞を数多く受賞した。

しかし、2006年10月7日、ポリトコフスカヤはモスクワ市内の自宅アパート建物エレベーター内で射殺体で発見された。

ロシア警察は事件直後、犯人らしき人物が写っている防犯カメラの映像を公開するなど、積極的に捜査を行い、チェチェン人2人の身柄を拘束。

2011年5月31日、ロシア連邦捜査委員会は殺害の実行犯とみられるチェチェン人のルスタム・マフムドフ容疑者の身柄を拘束したことを明らかにした。

彼女の殺害に関しては、何かしら政治的な思惑が働いているのではないかとの見方がある。

2011年8月25日、ロシア連邦捜査委員会は、ポリトコフスカヤ殺害を指揮したとして、モスクワ警察の元警視ドミトリー・パブリュチェンコフを拘束した。

同氏はモスクワ警察第4捜査課長だった2006年に、何者かに金をもらい、部下にポリトコフスカヤの尾行をさせ、犯行グループを集めて消音器付きの拳銃を手配して殺害を実行させたとして、2012年に懲役11年の有罪判決を受けている。

また、2014年5月22日には、ルスタム・マフムドフら実行犯2人に終身刑、残り3人に懲役12~20年の実刑判決が言い渡されている。

依然としてドミトリー・パブリュチェンコフに金を渡したとされる黒幕は明らかになっておらず、ポリトコフスカヤの長男イリヤら遺族や支援者は、暗殺を命じた人物を突き止めるよう露当局に真相究明を改めて求めている。

車爆弾

ダフネ・カルーアナ・ガリジア

ジャーナリスト、ダフネ・カルーアナ・ガリジアはパナマ文書流出によって発覚した、マルタの首相ジョゼフ・ムスカットの妻(ファーストレディ)ミシェル・ムスカット、同国官房長官コンラッド・ミッツィや首席補佐官キース・シェンブリの汚職疑惑を追及してきた。

また、2014年から国外の富裕層向けにマルタの市民権および旅券を高額で販売し始めた問題とパナマ文書との関連をとりあげていた。

アメリカ合衆国の政治ニュースサイトポリティコは、ガリジアを「2017年最もヨーロッパに衝撃を与えた28人」の1人に挙げた。

他方、与野党の政治家は彼女を名誉棄損で提訴していた。

2017年9月初め、ガリジアは自身のブログに「命を脅かされている」と記し、10月には脅迫を受けていると警察に相談し、10月16日、自宅近くで自動車に仕掛けられた爆弾の爆発により死亡した。

ムスカット首相は、「この野蛮な行為は決して正当化できない」と述べ、関与した者に裁きを受けさせるためあらゆる手を尽くすよう治安当局に指示した。

内部告発サイトウィキリークス創始者のジュリアン・アサンジは、ガリジア殺害に強い憤りを表明、犯人特定に役立つ情報の提供者に2万ユーロ(約264万円)を支払うとツイッターに記した。

その後、ムスカットの側近のキース・シェンブリ首相首席補佐官が殺害事件に絡み2019年11月26日に逮捕され、またコンラッド・ミッツィ観光相とクリスチャン・カルドナが経済・投資・中小企業相が警察より聴取されるなど政権を揺るがす事態となり、ムスカットに対する首相辞任の圧力が強まった。

12月1日、ムスカットは即時の辞任は否定したものの、翌2020年1月12日の労働党党首選挙にて新党首が選出され次第、首相を辞任すると表明した。

毒物

VXガス

金正男

金正男が暗殺された現場であるKLIA2の出発ホール(2016年撮影)

金正男は2017年2月6日にマレーシアに到着し、2月8日にはリゾート地として知られるランカウイ島を訪れていた。

2017年2月13日、金正男はマカオ行きのエアアジア便(午前10時50分発)に搭乗するため、クアラルンプール国際空港のLCC専用ターミナル (KLIA2)の3階出発ホールを訪れた。

午前9時00分頃、自動チェックイン機の前に立っていた金正男は突然2人の女性から襲撃され、猛毒の神経剤「VX」を顔に塗られた。

マレーシア警察によれば、金正男は攻撃を受けた後、空港の受付スタッフに対して「誰かが背後から掴みかかり、顔に液体をかけられた」こと、および1人の女が「液体を含んだ布を顔に被せてきた」ことを報告していた。

金正男はその後、自ら歩いてKLIA2内の「ムナラ・メディカル・クリニック」に向かい、治療を受けた。

治療にあたった医師の証言によれば、この時の金正男は大量の汗をかき、顔の痛みを訴えており、クリニックに入って間も無く痙攣を起こして意識を失い、口から血や泡を吹いた。

金正男には気管挿管が行われ、1ミリグラムのアトロピンおよびアドレナリンが投与されたほか、口の中から唾液や血液、嘔吐物を吸引して取り除く必要があった。

その後、空港内の診療所では救命ができないと判断され、金正男は蘇生装置を顔に取り付けられた状態で担架に乗せられ、空港の関係者専用エリアを通して救急車に運ばれた。

しかし、金正男はプトラジャヤ病院へ搬送される途中に救急車の中で心肺停止状態となり、午前11時に病院で死亡が確認された。

金正男は「キム・チョル」という偽名を使用して旅行していたため、マレーシア当局が死亡した男性を金正男と特定するまでには時間がかかった。

死亡時、金正男はバックパックに10万ドル余りの現金を入れていたほか、キム・チョル名義の北朝鮮国籍のパスポートを4つ所持していた。

遺体の瞳孔が固まり縮んでいるという不審な点が医師から警察に伝えられ、金正男が残した言葉や医師の報告をもとにマレーシア警察は殺人容疑で捜査に乗り出し、事件番号は「2017年2798号」とされた。

ポロニウム210

アレクサンドル・リトビネンコ

2006年11月1日、リトビネンコは、プーチン政権に批判的な報道姿勢で知られたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの射殺事件の真相を究明するため、イタリア人教授マリオ・スカラメッラと名乗る人物と、ロンドンのピカデリーサーカス周辺の寿司チェーン店で会食後、体調が悪化し病院に収容された。

リトビネンコは翌日集中治療室に移された。

ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の対テロ捜査部門は、毒殺が企てられたものとして捜査を開始。

11月22日病院側は,毒物はタリウム以外の放射性物質であると発表した。

面会相手のマリオ・スカラメッラは事件後、『武器密輸』、『国家機密漏洩』の罪状で、イタリアのナポリの空港で逮捕された。

ロシア大統領府副報道官のペシコフは、「リトビネンコの毒殺未遂事件にロシア政府が関与するなどあり得ない。全くばかげたことだ」 と反駁した。

リトビネンコは、集中治療室に収容されていたが、11月23日に死亡した。44歳没。

イギリスのマスコミは、タリウム中毒が疑われプーチン政権による毒殺未遂の可能性が濃いと報道。

BBC放送は、彼の体内から、ウランの100億倍の比放射能を有する放射性物質のポロニウム210が大量に検出されたと報じた。

ポロニウム210が体内に取り込まれた場合、アルファー線を被曝することになる。

大量のポロニウム210を人工的に作るには、原子力施設など大がかりな設備が必要とされる。

英外務省は同日、駐英ロシア大使のフェドトフを通じ、事件関連情報の提供をロシア政府に要求した。

25日付の英紙タイムズは、英国内務省の防諜機関で国内の治安を担当する情報局保安部 (MI5/SS) と英国外務省の対外諜報機関:情報局秘密情報部 (MI6/SIS) も捜査に加わったと報道。

同紙は、「動機、手段、機会の全てがFSBの関与を物語っている」 と指摘した。

捜査当局は同日、リトビネンコの自宅と彼が事件当日に紅茶を飲んだといわれるロンドン市内のホテルと寿司屋を捜索し、この3カ所で放射性物質の痕跡を確認。

英内務省と健康保護庁は緊急ホットラインを設け、寿司屋やホテルのバーを利用した市民に放射線を探知するための尿検査を受けるよう呼びかけた。

中には日本人観光客らも被害を受けた可能性があるとも報じられた。

ロンドン警視庁は27日、プーチンと敵対し英国に亡命しているロシアの政商ベレゾフスキーの事務所から、ポロニウム210の痕跡が検出されたと発表した。

29日付のロシア紙イズベスチヤは、リトビネンコが核物質密輸を行っていた可能性があると報じた。

11月29日、英国の航空会社:ブリティッシュ・エアウェイズは、欧州便22機から、少量の放射線反応があったことを発表。

10月25日以降の合計221便に搭乗した合計3万3000人余りに対し、保健省緊急窓口への連絡を要請した。

便名は自社のウェブサイトで公表している。

11月25日、プーチンを糾弾する内容のリトビネンコの遺書が公表された。

イギリス警察当局は、2007年1月20日リトビネンコ毒殺の容疑者を確認したと発表。

5月22日に主犯とされる旧ソ連国家保安委員会(KGB) の元職員アンドレイ・ルゴボイを殺人罪で告発し、ロシア政府に対し身柄引き渡しを求めた。

これに対しロシア側は2007年7月5日に憲法によりロシアの市民の受け渡しは出来ないとして拒否。

イギリスは抗議としてロシア外交官4人を国外追放するが、ロシアもその報復としてイギリス外交官を4人追放した(ペルソナ・ノン・グラータ)。

このように、イギリス側は殺害されたとの見方を固めているが、ロシア側が拒否するという状況が続いている。

容疑者とされたルゴボイは、2007年12月2日に行われたロシア下院議員選挙に極右政党・ロシア自由民主党の候補者として立候補、同党比例代表として名簿2位として登載され、同党が得票率制限を超えて議席を獲得しており、当選を決めた。

2014年に英国政府はリトヴィネンコの遺族の訴えに応じて、事件に対する第三者による調査委員会を設置した。調査委員会は80人以上の関係者から話を聞くなどして調査を進め、2016年1月21日、およそ220ページに上る報告書をまとめ公表した。

調査報告書中で、調査委員会は「殺害の計画は、おそらくウラジーミル・プーチン大統領によって承認された」として、プーチンが関与した可能性があるという見方を示した。

ロシア連邦政府は英国の調査報告書について反発し、ロシア外務省のザハロワ報道官が、「刑事事件が政治問題化され、英露間の雰囲気を悪化させる」と反駁した。

事件に関与した容疑で英国政府が身柄引き渡しを要求したアンドレイ・ルゴボイ下院議員も「調査報告はばかげており、いつものロシアのイメージを傷つけるキャンペーンだ。イギリスは、リトビネンコ氏が死亡した本当の原因を解明しようとしていない」と述べて、調査報告書を批判した。

マリーナ・リトヴィネンコ未亡人は、ロンドンで声明を発表し、「夫の言葉が正しかったことが証明されたことに満足している」と述べ、今後も英国政府に対してロシアに強い姿勢で臨むよう訴えた。

さて、いかがだったでしょうか。

それぞれ手段は違えど、暗殺という行為が世界の至る場所で行われてきたことが分かると思います。

こういった非道な行いはフィクションの世界だけに留めておいて欲しいものです。

あなたは、どう感じましたか?

引用:Wikipedia