【考察】沖田総司? 斎藤一? 果たして新撰組最強は誰だったのか?

【考察】沖田総司? 斎藤一? 果たして新撰組最強は誰だったのか?

どうも、さかいです!

今回は歴史について!

皆さんは新撰組は好きですか?

あまり詳しくないという方も歴史の授業で習ったり漫画や映画なんかで聞いたことがあったり。

きっと一度は耳にしたことがあると思います。

そんな新撰組ですが、果たして最強の剣客は誰だったのか?

それについて考察してみたいと思います。

最初に一応、断っておきますが、さかいは新撰組の専門家でも歴史学者でもありません。w

マニアでもないです。(笑)

なので、認識に多少の齟齬や不足があるかも知れませんが、その辺りはどうかご容赦くださいませ。w

これは大変、有名なエピソードですが、後生、永倉新八は弟子に

沖田総司が猛者の剣、斎藤一が無敵の剣

と語っています。

『新撰組顛末記』著: 永倉新八

この永倉新八の発言からも、沖田と斉藤の二人が新撰組の双璧。

剣術に関しては頭一つ抜けていたと考えていいのではないでしょうか。

なので、本記事ではこの二人にフォーカスして考察してみたいと思います。

結論を先に言うと最強だったのは

斎藤一

だったのでないかと考えます。

根拠としては、その剣術の腕前を語るうえでの豊富なエピソードが残されていること。

即ち、潜り抜けてきた修羅場の多さ。

それまで一度も致命傷を負うことなく最後まで天寿を全うしている。

これについては並みの人間では到底、成し得ない偉業とさえ言えます。

ここで少し、斉藤一の残したエピソードを箇条書きにしてみることにします。

・19歳のとき、江戸小石川関口で旗本と口論になり斬殺。逃亡に成功する。

・京都の剣術道場主・吉田某のもとに身を隠し、吉田道場の師範代となる。

・新選組幹部の選出にあたり、20歳にして副長助勤に抜擢される。

・後に新撰組が再編成された際には三番隊組長に抜擢、撃剣師範も務める。

・池田屋事件の際、その功績をたたえられ幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を受ける。

天満屋事件で海援隊、陸援隊に襲撃されるも無事、生還。

・戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い、白河口の戦いにも参加。最前線で戦う。

・明治7年(1874年)7月、東京に移住。警視庁に採用される。

・西南戦争に参加。斬り込みの際に敵弾で負傷するも奮戦。

・警視庁の再設置により11月に巡査部長に昇進、その後、とんとん拍子で出世。

いかがでしょうか?

これだけ数多くの修羅場を体験し、かつ生き抜いた人物が歴史上、他にいるでしょうか?

さかいは知りません。(笑)

多少の運や巡り合わせはあれど常軌を逸してるし超人の域。

一介の剣士としての領分など、とうに凌駕してしまっていると言ってもいいのではないでしょうか。(ランボーも真っ青?w)

さて、次は沖田総司についての逸話を軽く述べていきたいと思います。

・新撰組結成の際、一番隊組長に抜擢される。(一番隊は精鋭が集められ最も重要な任務をこなしたといわれる)

・初代局長、芹沢鴨を暗殺する。(ただし単独ではない)

・大坂西町奉行所与力・内山彦次郎を暗殺。

・総長、山南敬助が脱走。その際、 山南を捕らえて切腹の介錯をする。

・後年、永倉新八は「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」とも証言。

・構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出す剣技「三段突き」を得意とした。※ただし諸説あり

・池田屋事件の際、奮戦の最中、喀血により戦線離脱。※これについても諸説あり。

いかがでしょう?

沖田の場合は斉藤と違って、道場での稽古や模擬戦、剣技そのものについて賞賛するエピソードは数多く残されているものの実戦においての逸話はいまひとつ。

極端に少ないことに気づかされます。

言うまでもなく道場で竹刀を振り回すのと実戦で真剣を振るうのとでは雲泥の差。

生死を賭けた戦闘において、残念ながら沖田がどれだけの腕を持ち合わせていたのか。

それについては正直、未知数です。

今となっては知る由もないし、それを評価するだけの材料は乏しいと評価せざるを得ません。

(新撰組設立当初から一番隊の隊長に抜擢されていることから腕は確かだったのでしょうが)

無論、沖田の場合は病に蝕まれており、途中で退場を余儀なくされたことが大きく影響しているわけですが、それを差し引いても斉藤の神懸り的な逸話の方が一枚も二枚も上手な印象。

もっとも新撰組は暗殺集団としての顔も持っており、その性質故、あまり功績は公にされず、詳細について後生に語り継がれなかった可能性も否めません。

そのため単にエピソードとして語られていないだけで沖田も当時は斉藤に負けず劣らずか、それ以上。

もしかすると、裏ではその天賦と評された剣を存分に振るっていたのかも知れません。

ところで晩年、 斎藤一について面白いエピソードがあるのをご存知でしょうか?

孫と映画鑑賞した後、劇場前で不良数人に絡まれるのですが、 その際、なんと斎藤は気迫だけで相手を打ち負かしたのだといいます。

また、たまたま道端で剣術の練習をしていた少年の前に現れ、借りた竹刀を用いて空き缶をひと突き。

見事に貫いたといいます。※これについては諸説あり

この世を去った際のエピソードも大変、印象的です。

1915年9月28日、斉藤は胃潰瘍で死去するのですが、その際、居間で座ったままの状態だったのだとか。

まさに我々の想像する武士。

侍の姿そのままですよね。

享年72歳でした。

と、まあ、色々と考察してきたわけですが、この両者が他を寄せ付けない使い手であったことは既に言及してきた通りです。

同時に、その生き様、逸話からも彼らの魅力は計り知れません。

まるで創作のなかから飛び出してきたかのような人物像。

いや、きっとそれ以上の存在であるといえるでしょう。

百年近く経過した現代において多少の姿形は違えど。

未だ様々な媒体に登場したりと、ファンが絶えないことにも頷けます。

え? さかいは沖田総司と斉藤一のどっちが好きかって?

断然、沖田総司です。(笑)

天才と称され恐れられながらも志半ば。

まるで桜のように儚くも散っていった孤高の剣士。

その生き様にロマンを感じるとでもいうか。

美学に近いものを感じるのですよね。^^;

子供のように無邪気で穏やかな顔と、その真逆ともいえる冷酷な剣士としての顔。

そのギャップにも萌えます。w ←ギャップに弱い奴。w

もし、沖田総司が生きていたら?

途中、病に倒れなかったら?

新撰組そのものを始め、近藤や土方、斉藤、永倉の運命。

あるいは歴史そのものが変わっていたかも知れません。

そんな想像を巡らせるのも、また歴史の醍醐味。

楽しみだといえるのではないでしょうか?

あなたはどう感じましたか?^^