【香澄の秘密部屋】とある男と女の会話

【香澄の秘密部屋】とある男と女の会話

「そろそろ観念すれば?」

小洒落た雰囲気の店で、ずっと気になってた。

映画の撮影で使わせてもらったのが知ったきっかけだった。でも、仕事でアマルフィを訪れる機会があっても、この店だけは素通りしてきた。

その理由は、いつか本命の相手と来ようと心に決めていたからだ。

ただの遊びだったり、売名目的で言い寄ってくるモデルに歌手、女優、それに娼婦のような女は皆、他の店で済ませた。

つまり西園寺薫にとって、この店は特別だった。

「何の話?」

グラスを傾けるついでだった。

腰には拳銃、ベルトにはバッジに手錠。仏頂面をした無愛想な女が、ぶっきらぼうに聞き返す。

一見、不機嫌そうに見えるが霧崎香澄という女にとって、これが通常の状態。

つまりは平常運転だ。

性格は極めて劣悪。自己中心的で偏屈、他人には無関心。素っ気なくて気分屋で。大の人間嫌いで滅多に気を許さない。気性も穏やかとは言えない。

にもかかわらず一際、男たちの興味を引くのは、それら負の部分を帳消しにするだけの魅力があるからに他ならない。

「わかってるくせに」

「わからないわ」

雑にライターが放られる。

滑るようにしてカウンターの上に転がっていった。

「いい加減、俺のモノになれよ。世界中、逃げ回ってないで」

「死んだ方がマシ」

美しく整った横顔が言う。

「苦労して、やっと捕まえたんだ。メールもSNSも繋がらないし。上司クンに電話しても知らないの一点張り。いつ以来?」

「避けられてるとは思わないわけ?」

「むしろ逆」

悪びれることもなく薫。屈託なく笑った。普段はクールを売りにしている大人気スターも、このときばかりは少年のようにあどけない表情を覗かせる。

この笑顔を前に、どれだけの女が泣かされてきたか。

「俄然、やる気が出る」

「羨ましい性格」

「何より、あんたは追われることを楽しんでる。いつもそうだ。そうやって気のないフリして男の気持ちを弄んで」

「そう」

心底、女は鬱陶しそうに言った。

「じゃあ、どうして今夜のツアー、観に来てくれたの? 俺のことを気にかけてる証拠だ」

「たまたまよ。仕事で近くに寄った」

「あれ? 今は停職中のはずじゃなかったっけ?」

ウェイターの食器を片付ける音だけが鳴り響く。他の客たちの姿は既にいなくなっていた。さっきまでテーブル席にいたカップルも出ていったようだ。

事実上の貸し切り。これほど贅沢な時間もない。

「ダンマリか」

少し意地悪を言いすぎたか。

「なら、こうしよう」

どこからともなく硬貨が現れた。

しばらくの間、50ユーロセントが行ったり来たり。繊細な指の間を散歩する。薫は自慢のテクニックを披露した。プロのマジシャンも真っ青の腕前だ。

「今から投げるコインが表なら俺の勝ち、裏ならあんたの勝ち」

「そうやって他のコのことも口説いてるわけ」

「まさか」

薫は笑い飛ばした。

「この手は初めて使う」

「他所でやって」

「どうして? 負けるのが怖い?」

「そうじゃない」

「ただのゲームだ」

「よく言うわ。表しか出ないコインを仕込んでおいて」

「バレた?」

「バレバレよ」

「流石、元プロの殺し屋。何でもお見通しというわけか」

「そんなの見ればわかる」

「よし、じゃあ、こっちだ。これなら表も裏もある。どう?」

「もう信用できない」

「少しは信用すれば? あんたの悪い癖だ。人のことを。特に男のことを疑いすぎるのは」

「疑うのは理由があるからよ」

「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみないとわからない」

「何それ」

「知らない? トム・ハンクスの有名なセリフ。映画の中で言ってた」

「帰るわ」

吸い殻が押しつけられる。チップと代金を置いて席を立った。

「また逃げるつもり?」

「飲み直しにいくのよ」

真っ直ぐで艶やかな黒髪が掻き上げられて靡いた。

「どこに?」

「女の尻を追い回すことしか能のない落ち目の俳優のいない店によ」

「俺の本業はロック歌手」

「知らないわ」

が、思いの外、酔いが回っていたらしい。ヒールの足がよろめいた。

「おっと」

立ち上がって受け止めた。ごく自然に。

爽やかな見た目とは裏腹だった。

意外にも鍛えられ、引き締まった二の腕に一瞬、ドキリとする。

「じゃあ、こんな言葉は知ってる?」

あどけない少年のような表情から一変。

獲物を狩ろうとする大人の男が顔を覗かせる。悪いオスの顔に。それは薄暗い照明と相まって一層、野性味あふれて見えた。

「今夜こそ、おまえを逃がさない」

ぐっと腰を引き寄せる。女に抵抗する素振りはない。流されるがまま。屈強で力強い腕の中に身を委ねている。

「それも映画の中のセリフ?」

「どうかな」

薄くルージュの塗られた唇が物欲しげに開く。 

「確かめる方法はひとつ」