【香澄の秘密部屋】デキたみたい。
- 2025.10.26
- 香澄の秘密部屋

「ねぇ、香澄先輩?」
「なに?」
「ちょっと聞いてもらえます?」
「嫌よ」
ご挨拶だった。まだ何も話していないのに。
もっとも、いつもの調子。相変わらずといえば相変わらずなのだが。
つまりは平常運転。

「わたし、デキたみたいなんです」
「へぇ」
「って、先輩、聞いてます?」
「聞いてない」
「じゃあ、勝手にしゃべりますね」
両手でエメラルドグリーンの液体の入ったカクテルグラスを遊ばせた。
「なんかデキちゃったみたいなんです」
「デキたって何が?」
今頃になってだった。
「決まってるじゃありませんか。デキたといったらアレですよ」
「アレじゃ、わからない」
「先輩とわたしの仲なのに?」
「どんな仲よ」
「わたしと志来主任のです」
取り出しかけていた煙草の一本が指の隙間から溢れる。
コロコロとカウンターの上を転がっていく。追おうとするも床に落ちてしまったため諦めた。
「ねぇ、リン」
「はい?」
「デキたって」
「あ、噂をすれば何とやらです」
スマホを手に取るとリン。
「今、主任、お店に向かってるって」
嬉しそうに、お腹の辺りを擦った。まるで愛でるように。
「リン」
「いやぁ、まいった、まいった!」

拡声器のように大きな声。赤キャップにパイロットジャンパー。そばかす顔のハッカー。サラが入ってきた。
「デキちまったぜ」
「えっ」
「うっかりデキちまった」
「あら、サラさんも? わたくしもデキてしまいましたわ」
続いてノエルも加わる。
「なんだよ、おまえもか?」
「やだ、皆さん、一緒にデキてしまわれましたの?」
「らしい。つうこたぁ予定日も皆、一緒ってか」
どこもかしこもだった。
まともな女が一人としていない。香澄を除いて。皆、デキただの予定日だの口にしている。それも平然として。

「おや、皆さん、どうしたんです? 揃いもそろって」
いよいよとばかりだった。
真打ちの登場である。実に清々しい顔をして志来祐介。満面の笑みで現れた。この幼い顔も今は悪魔みたいに見える。
「どうもこうもねぇや。もうデキたらしい」
「え、もうですか?」
「な? 随分、早ぇよな。予定よか二週間も早かった」
「きっと玉のように美しい子でしょう。苦労して作った甲斐がありました」
「あたしゃ、気持ちよかったがな」
「今から楽しみですわね」

「志来クン、ちょっと」
「何です? 香澄さん。血相を変えて」
「いいから」
強引に腕を捻り上げた。引きずるようにして奥まで連れ出していく。
「一体、どういうつもり?」
「どうとは?」
「知らなかった。そこまで女にだらしがなかったなんて」
「はい?」
「生真面目さだけが取り柄だと思ってたのに」
「さっきから何を怒ってるんです?」
「別に怒ってない。ただ呆れてるだけ」
「そうですか」
何処か煮え切らない様子で頬をかいた。

「香澄さんもどうです? よかったら。今度、僕と一緒に作りませんか?」
「馬鹿にしないで」
「馬鹿になんかしてません」
「本気で言ってるの?」
「本気ですが?」
「信じられない」
話にならない。最低。クズ男。女の敵。
この世に存在するであろう悪口に罵詈雑言。思いつく限りの言葉で罵った。

「順序ってものがある」
「順序?」
「そういう大事なことは。お互い、きちんとルールを決めて。話し合って。それから……」
「ルール、ですか?」
「そう、ルールよ」
香澄は髪を払いのけた。
「いつも自分で言ってるじゃない。散々、人には守れって」
「理屈ではありません。作るのにルールなんて必要ありません。自由に。好きなように作ればいいんです。自分の持つ本能に従って」
「信じられない」
何故か顔を真っ赤にしている。耳たぶの辺りまで桜色に染まり上がっている。
「もういい。話もしたくない」

「皆でガラス工房に行ったんですよ」
「ガラス工房?」
「えぇ、チェコの片田舎にある。小さなガラス工房です。そこで各々、作品を作ったんです。せっかくだし記念にって。僕は眼鏡入れを。リンさんはお菓子入れ。ノエルさんはティーカップ」
「で、あたしは灰皿だ」
ピンボールを楽しむついでにサラ。
「最終的には職人さんが手を加えてくださるって。それで完成予定日が今日だと。直接、受け取りに行こうかとも思ったのですが結局、郵送してもらうことになりました」
「……そう」
「一体、何と勘違いしてたんです?」
皆で顔を見合わせる。サラもノエルもキョトンとしている。どういうわけかリンだけはニヤニヤと笑みを浮かべている。
「別に」
馬鹿馬鹿しい。
そそくさと香澄。カウンター席へと戻っていった。
「何でもない」
カラン、グラスの中の氷が音を立てた。

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