【閲覧注意】“安全”神話の被害者?身体が発光する『ラジウム・ガールズ』とは?

【閲覧注意】“安全”神話の被害者?身体が発光する『ラジウム・ガールズ』とは?

どうも、さかいです!

皆さんはラジウムについて、ご存知でしょうか?

ラジウムは放射性物質の一種です。

放射性物質といえば、現在では当然のように人体にとって有害という概念が通説です。

しかし、なんと驚くべきことに一昔前は無害。

それどころか身体に良いとさえされていた時代が存在していたのをご存知でしょうか?

今回は、そんなラジウムによって運命を狂わされた人たちについて、ご紹介をしていきたいと思います。

尚、事件の詳細を、よりリアルに伝えるため、当時、実際に起きたショッキングな画像を用いております。

閲覧には注意してください。

ラジウム・ガールズとは?

ラジウム・ガールズとは、ラジウムを含有する夜光塗料を塗る作業に従事し、放射線中毒になった女性工場労働者のこと。

現在は1917年頃から北東部大西洋岸のニュージャージー州オレンジの工場、1920年代初頭から中部のイリノイ州オタワの工場、そして北東部ニューイングランドのコネチカット州ウォーターベリーの工場で働いていた女性たちを指す。

塗装作業を行う工員として、推定4,000人がアメリカやカナダの複数の会社によって雇用された。

各工場の工員たちは、塗料は無害だと説明されていた。

また、時間と塗料を節約するために、ブラシの先を整える際には口を使うように指導されていたという。

当然、彼女たちは致死量のラジウムを摂取。

被曝した女性の多くは貧血、骨折、ラジウム顎(あごの壊死)、骨肉腫などを発症した。

結果、多くの死亡者が出た。

ニュージャージー州の5人の女性は、職業病に罹った労働者の権利をめぐり、ニュージャージー州の労働災害法に基づいて雇用主を訴えた。

当時は2年間の時効があったが、1928年に法廷外で和解が成立。

ラジウム・ダイヤル社の従業員であったイリノイ州の5人の女性は、イリノイ州法に基づいて雇用主を訴え、1938年に損害賠償を勝ち取った。

経緯

1917年から1926年まで、米国ラジウム社はカルノー石からラジウムを抽出・精製して夜光塗料を製造する事業を行っており、塗料は「アンダーク」というブランド名で販売された。

原料となる鉱石はコロラド州のパラドックス・バレーやユタ州の他の「アンダーク鉱山」から採掘されていた。

民間軍事会社である米国ラジウム社は、軍用の夜光時計の主要な納入業者だった。

ニュージャージー州オレンジにあった同社の工場では、主に女性を中心とした100人以上の労働者を雇用し、ラジウム塗料の危険性を教えないまま塗装作業に従事させていた。

米国ラジウム社はラジウムを取り扱う作業を含む仕事のために約70人の女性を雇ったが、その間も経営者と科学者はラジウムの危険性を認識しており、慎重に被曝を避けていた。

ラジウムを取り扱う際、科学者は放射線を遮るための鉛のスクリーン、マスク、トングを使用した。

米国ラジウム社は医学界に、ラジウムの損傷作用について述べられた文献を配布していた。

このような知識があったにもかかわらず、同時期にラジウムを扱う様々な会社が

「少量であればラジウムは健康に良い」

として、ラジウムを含む飲料水製造器や、化粧品やバター、牛乳、歯磨き粉等が健康食品として広く市販されているような状況も背景があった。

よって女工達が扱う程度の塗料であればこれらの「健康食品」同様に健康被害を及ぼさないであろうと安直に思い込まれていた。

第一次世界大戦でアメリカは夜光塗料が塗布された軍用時計を大量に製造して軍用機の操縦士や軍用車両の運転手達に支給しており、ラジウムは大戦の戦勝に貢献した夢の物質と、当時は本気で信じられていたのである。

第一次大戦に父や兄弟が出征した家庭では、銃後のアメリカ社会に少しでも貢献したいという意志も後押しして多くの女性がラジウム産業の求人に応募した。

米国ラジウム社の賃金は当時の一般的な工場労働で得られる平均賃金の3倍以上であり、何よりも労働後に自身の身体や衣服が付着した塗料によって暗闇で明るく光る事もあって若い女性の間では人気の就業先ともなっていた。

結局、被爆による死亡者は1922年から1925年まで発生し、その中には同社の科学者のリーダーであるエドウィン E. レマンや多数の女性工員も含まれた。

彼らの似通った死亡状況を知り、ニュージャージー州ニューアークの郡内科医だったハリソン・マートランドは調査を始めた。

米国ラジウム社では、工員は塗料を小さなるつぼで混ぜ、ラクダの毛のブラシを使って時計の文字盤 (時計)に塗った。

1日に250枚の文字盤に塗料を塗った場合、その賃金は1枚の文字盤につき1ペニー半であった(2020年時点の$0.293と同等)。

ブラシは数回使うと形が崩れるので、米国ラジウム社の監督者は、工員に「リップ、ディップ、ペイント」を奨励した。

すなわち、

『唇や舌を使ってブラシを整え、塗料をつけ、再び塗れ』

と勧めたのである。

工員にはラジウムの本当の性質は知らされておらず、彼女たちは塗料をたわむれに爪や歯、顔に塗ることもあった。

多くの工員が病気になったが、そのうちの何人が放射線被曝によって死亡したかはわかっていない。

少なくとも、1922年の時点で最初の犠牲者が発生し、後述の訴訟の原告となった者達全員が死亡したのは確かである。

後年、ラジウム・ガールズの実態について調査を行ったケイト・ムーアによると、犠牲者の総数は少なくとも112人以上、犠牲者のうち最も若年の少女は労働従事時点の年齢が11歳であったとしている。

被曝した女性の多くは貧血、骨折、ラジウム顎(あごの壊死)、骨肉腫などを発症した。

また、検査の際に使用されたX線撮影機によって工員の病状はさらに悪化したと考えられ、少なくとも一つの検査は、会社側によるデマの発信活動の一環として行われたことが判明している。

米国ラジウム社やその他の文字盤製造会社は、労働者がラジウムによって被曝したとは認めなかった。

これらの会社からの要求を受け、医師や歯科医師、調査者はデータを非公開にした。

また、労働者たちの死亡は、当時蔓延していた梅毒など別の原因によるものとされた。

ラジウムは人体の中ではカルシウムと類似した振る舞いを行い、骨に沈着する性質があった。

この作用により被曝の開始から発病まで平均して5年前後掛かる傾向があった事も、因果関係の立証を一層困難なものとした。

1928年11月、ラジウム文字盤塗装の発明者であるサビン・アーノルド・フォン・ソチョッキー博士が放射線障害のため死亡し、ラジウム塗料による16人目の死亡者となった。

彼はあごではなく両手に障害を生じたが、彼の死亡状況は、裁判における労働者たちの立場を有利にした。

隠蔽

ラジウム・ダイヤル社は1917年に設立。

その後、1920年にイリノイ州ペルーに移転、1922年にイリノイ州オタワに移転した。

米国ラジウム社と同様に、主要事業は時計の文字盤の塗装であり、イリノイ州ペルーのウエストクロックス社が最大の顧客だった。

オタワで塗装された文字盤は、ウエストクロックス社の人気商品だった「ビッグベン」「リトルベン」という目覚まし時計や、旅行用時計に使用された。

また、米国ラジウム社と同じく若い女性を工員として雇い、米国ラジウム社の工場やウォーターベリーの工場と同様に「リップ、ディップ、ペイント」の手法を奨励した。

元社長のジョセフ・ケリーは解任後、競合他社となるルミナス・プロセス社を設立したが、やはり他の企業同様のやり方、条件で女性を雇用した。

ラジウム・ダイヤル社の労働者たちは、1926~1927年にラジウム中毒の兆候があらわれ始めたが、ニュージャージー州で起きていた裁判のことはまだ知らなかった。

ラジウム・ダイヤル社の経営者は、ラジウム塗料の毒性を測る身体検査やその他の検査の実施を許可したが、その結果を労働者たちに伝えることはなかった。

ラクダ毛ブラシの使用中止が試みられたこともあり、経営者はガラスペンを導入したが、工員たちは効率が落ちることに気がついた。

工員は出来高制で働いていたため、再び効率の良いブラシを使用するようになった。

ニュージャージー州の訴訟について地元の新聞が取り上げた際、彼女たちは雇用主から、

『ラジウムは安全であり、ニュージャージー州の労働者たちはウイルス感染の兆候を示しているのだ』

と説明されたため、そのまま仕事を続けた。

2015年、ラジウム・ダイヤル社の当時の女性労働者の最後の生き残りであるとされるメイベル・ウィリアムスが104歳で死去した。

ウィリアムスは幸運にもラジウムによる放射線障害を発症せずに天命を全うしたが、彼女自身は夜通し自身の髪で光り続けるラジウム塗料を気味悪く感じた事もあり、労働中に筆先を口で咥える事は一切しなかった事が幸いしたのだろうと振り返っていたという。

エベン・バイヤーズの例

1903年に撮影されたバイヤーズ

エベニーザー・マクバーニー・”エベン”・バイヤーズは、アメリカ合衆国のソーシャライト、アマチュアゴルファー、実業家。

1906年の全米アマチュアゴルフ選手権で優勝している。

彼は、1930年代初頭に、水にラジウムを溶解させたラディトールという特許薬を服用し、複数の放射線が原因と推定される癌で死去したことで著名となった。

ゴルフをプレーするバイヤーズ(1920年から1922年の間に撮影)

1927年、バイヤーズは寝台車のベッドから落下し、腕を負傷した。

バイヤーズの腕の痛みは快方に向かうことなく、長期間にわたって続くことから、医師がウィリアム・J・A・ベイリーが製造した特許薬であるラディトールを服用することを提案した。

ベイリーは、ハーバード大学を中退した人物であったが、自身を医学博士であると詐称した上で、内分泌系を刺激すると主張するラジウム水溶液であるラディトールを販売し成功を収めていた。

彼は、処方した分のうち6分の1相当のキックバックを医師に渡していた。

バイヤーズは、「引き締まった状態」になると信じて、1日当たり数回の頻度で服用し始めたものの、その効果が薄れてきた1930年10月に使用を中止した。

しかし、それまでにバイヤーズはラディトールを約1,400回も服用していた。

彼は体重の減少と頭痛に悩まされるようになり、更には歯が抜け落ち始めた。

1931年には、連邦取引委員会はバイヤーズに、自身の経験について証言する様に依頼したものの、彼の身体は既に長距離の移動に耐えられる状態に無く、委員会は自宅で声明をとるために、弁護士を派遣することにした。

この弁護士は、バイヤーズの状態について、

「2本の前歯を除く上顎全体、そして下顎のほとんどが失われていた」

更に

「彼の身体の残る骨組織は全て崩壊しつつあり、実際に頭蓋骨には穴が開いていた」

と報告している。

1932年3月31日、ニューヨーク市マンハッタンでバイヤーズは死去し、死因は当時の用語で「放射線中毒」とされた。

ただし、この死因は現代における急性放射線症候群を意味せず、実際には癌によるものであった。

彼は、放射線が漏れ出すのを防ぐための鉛で裏打ちされた棺の中に入れられ、ペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲニー墓地に埋葬された。

考察

仮に何かの薬物を摂取し、後に身体に異変が生じたとしても、そのことを薬物による影響だと証明するのは至難です。

訴えられた張本人は何かしら適当な理由をつけて常に責任を回避しようとします。

こういった事例は決して珍しくはありません。

日本の薬害エイズ事件しかり、このラジウムガールズ事件のように立証できた例は、ごく少数と言えるでしょう。

察しの良い方は既にお気づきかと思います。

これって、どこか今、我々の置かれている境遇に似ているとは思いませんか?

『摂取しておけば安心』

『むしろ健康になる』

『直ちに害はない』

『皆、安全だと言ってるから大丈夫』

当時、被害に遭った女性たちも皆、これらの言葉を信じて疑わなかったはず。

その後、彼女たちがどうなっていったか?

結果は、ご紹介した通りです。

周囲には情報が溢れ、むしろ過多といってもいい昨今。

あっちではこう言っていて、こっちではそれとは真逆のことを言っている。

情報を一方的に与えられ、受け取る時代はとうに終わりを告げ、むしろ自分たちから情報を探しに足を運んでいって、何が正しいのか。その情報は本当に正しいのか。デマじゃないのか。

現代社会は、それらについて、よく見極めなければいけない時代にシフトしたといっても過言ではありません。

そのため常に自分のアンテナを張り巡らし、メディアや他人の言うことを決して鵜呑みにしないことが大切だと言えるでしょう。

(特に自分の言葉に責任を持たない輩には要注意です)

周りの情報に流されず振り回されず。

自分自身の意見を持つ。考えを持つ。物事を客観的に見極める。

そのことが重要だと言えます。

『未来へのヒントは常に過去にある』

ということを我々は忘れてはなりません。

あなたはどう感じましたか?

引用:Wikipedia