【香澄の秘密部屋】湯煙★シンドローム
- 2025.07.27
- 香澄の秘密部屋

『なに、じろじろ見てるの?』
とある山奥に秘境温泉がある。
たまたまネット記事で見かけたのが、きっかけだった。
日々、溜まりに溜まった仕事疲れにストレス、鬱憤、不平に不満、始末書の山。それらを発散するため慰安旅行と称しチーム皆で足を運んだ。
経費は落ちなかったが。
と、その矢先の出来事だった。
『なんで』
湯煙の中だった。そこには正真正銘、一糸まとわない。
天女ならぬ霧崎香澄が佇んでいた。
しかも恐ろしいくらい無防備で。
普段の病的なまでの男嫌いで潔癖で。警戒心剥き出しで。そのうえ偏屈で自己中心的で。暴力的で傍若無人な佇まいからは到底、想像できない。
一瞬、別人なのでは?
そう疑ったくらいだ。が、それも、どうやら違うようだ。
そもそも香澄さんは今、別行動のはず。
絶景を見渡せる名所があるとか何とか。そう言ってサラさんやリンさんと一緒に散歩に繰り出していった。
『いえ、その前にです。どうして僕と香澄さんが一緒のお風呂に』
皆目、意味がわからなかった。
理解に苦しんだ。この世の数式という数式。方程式という方程式をすべて解き明かしたとしても答えに辿り着かない。
男と女、上司と部下、警官と殺し屋。
一体、何がどう絡み合えば、このような図式になるのか。展開になるのか。
『混浴だから』
風呂椅子に腰掛けたまま香澄が全身に掛け湯する。
『いえ、そういう意味ではなく』
『じゃあ、どういう意味?』
『その、いいんですか?』
『え?』
『僕なんかと一緒にお風呂に入って』
凄すぎて直視できない。
何が凄いかは言うまでもない。スタイルからバスト、ウェストからヒップ、脚の長さ。要するにすべてである。
『今さら』
溜め息交じりに言うと香澄。
一本、また一本と湯船に、そのスラリと伸びた脚を踏み入れてきた。やがて肩まで浸かった。
『自分の女の裸なんて見慣れてるでしょ』
はい? 今、何と?
香澄さんが僕の女? 確か今、そう聞こえたような。香澄さんの裸を僕が見慣れてる? え? え?
『なに? 鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔して』
『えぇっと』
頭の中は絶賛、混乱中。今にもオーバーヒートして煙が噴き出しそうだ。
『それに“香澄さん”なんて変よ』
『変、でしょうか?』
『いつもは“さん”なんて付けない』
香澄さんを呼び捨て? 僕が? まさか。
そんな風に呼んだことなど一度としてない。これからも。多分、未来永劫。
第一、呼び捨てなんてした日には命はない。
『気安く呼ばないで』
そう凄まれてビンタや拳が関の山。
よくても眼鏡が飛ぶ。
とにかく無事では済まされない。
『ねぇ、祐介』と香澄。
『本当に大丈夫? 熱でもあるの?』
心配した面持ちで顔を近づけてくる。
タプタプと水面の上を先端が擦れる。何がとは言わないが。とにかく巨大な膨らみが大きく揺れる。
眼鏡が曇っていたことが悔やまれる。
そのせいで視界全体がボヤけて見える。残念なことに。
『熱だって出ます』
『駄目よ』
そう言うと香澄は前髪を軽く流した。
『簡単には寝かせない』
ザバッ、お湯の音がした。
『今夜も期待してる』
先に上がってる。そう告げると、ひたひたと白い素足は石畳の上を歩いていった。
『期待してる? 一体、何をです?』
『決まってる』
髪留めが外され首を振る。
途端、長い黒髪が散らばった。
『セックスよ』
やがて真っ白い湯煙が目の前を塞いでいく。
そのうち濃霧のように変化していく。完全に視界を塞いでいく。
一緒に意識まで遠くなっていって……。
『お客さん!?』
遠くで男の叫ぶ声がした。
『お客さん! お客さん!』
それは何度も何度も。繰り返し自分を呼んでいるようだった。身体も揺さぶられた。ほっぺたも叩かれた。
『よかったべ、風呂場で倒れちょったから』
気が付くと誰かが心配そうに覗き込んでいた。思い切りドアップで。危うく人工呼吸されそうになった。知らない顔だった。
『えぇっと、僕は?』
思い出した。確か番頭さんだ。この宿の。
『勘弁して』
番頭さんに礼を告げると香澄は見下ろすように腕組みした。
『慌てて戻ってきたんだから。お風呂場で変死体が見つかったって。そう聞いたから。まさか志来クンだったなんて。顔から火が出そうよ』
そうか、僕は露天風呂で意識を失って。
『ごめん、香澄』
『ねぇ』
『はい?』
『今、何て呼んだ?』
『いえ、ですから香澄。そう呼べって。“さん”付けなんて変だって。さっき自分で、そう言っていたではありませんか』
『わたしが?』
『えぇ、ですから香澄』
『誰に口を利いてるの?』
殺し屋の手のひらがフルスイングされる。
『気安く呼ばないで』
番頭さん曰わく。
代々、この秘境に伝えられる神話で温泉に浸かると時折、異世界に通じることがあるのだという。
過去に繋がったり未来に繋がったり。
単なる迷信だと。
そう言って番頭さんは笑い飛ばしていたが。
でも、果たしてそれが本当だったとしたら?
あの香澄さんは――?
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