【世界の美女名鑑】永遠の妖精 オードリー・ヘプバーンの素顔

【世界の美女名鑑】永遠の妖精 オードリー・ヘプバーンの素顔

どうも、さかいです!

さて、今回は皆、大好き世界の美女名鑑。

伝説の名優、オードリー・ヘプバーンをご紹介していきたいと思います。^^

オードリー・ヘプバーンといえば、さかいの中では、なんと言っても『ローマの休日』でしょうか。

勿論、まだ生まれてもいない時代の映画ですが(笑)、思春期の頃、はじめて彼女を目にしたとき、そのあまりの美しさに言葉を失ったのを今でも鮮明に覚えています。

(息を呑む美しさって本当にあるんだな。。。)

そんな世界を虜にしたオードリー・ヘプバーンとは、どんな女性だったのか?

彼女の意外な素顔について迫っていきたいと思います。

オードリー・ヘップバーン (Audrey Hepburn)

■本名
オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン(英: Audrey Kathleen Hepburn-Ruston)

■生年月日
1929年5月4日

■没年月日
1993年1月20日(63歳没)

■出生地
ベルギー・ブリュッセル・イクセル

■死没地
スイス、ヴォー州

■国籍
イギリス

■身長
170cm

■職業
女優

■活動期間
1948年 – 1989年(女優)

■配偶者
メル・ファーラー (1954年 – 1968)
アンドレア・ドッティ (1969年 – 1982)

■著名な家族
ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生)
ルカ・ドッティ (1970年生)
エマ・ファーラー(1994年生、孫)

■主な出演作
ローマの休日
ティファニーで朝食を
シャレード
おしゃれ泥棒

■主な担当声優
池田昌子

※Wikipediaより

世界が愛したオードリー・ヘプバーンとは?

オードリー・ヘプバーンはイギリス人で、アメリカ合衆国で活動した女優です。

ヘップバーンとも表記されます。

ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、今なお、映画界ならびにファッション界のアイコンとしても知られています。

5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立ちます。

イギリスで数本の映画に出演した後、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得。

その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演しています。

ちなみに

1954年『麗しのサブリナ』

1959年『尼僧物語』

1961年『ティファニーで朝食を』

1963年『シャレード』

1964年『マイ・フェア・レディ』

1967年『暗くなるまで待って』

などの人気作、話題作に出演しています。

女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』でトニー賞を受賞しています。

さらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっています。

70年代以降ヘプバーンはたまに映画に出演するだけで、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げました。

※ちなみに日本ユニセフとは全くの別物です。(笑)

ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身しています。

1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与。

この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去されました。

『ローマの休日』の秘話

1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めることに。

『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じます。

後に製作・監督のウィリアム・ワイラーは

「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」

と振り返っています。

この時点で彼女には天性の魅力が備わっていたのですね。^^

製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だったのだそう。

しかしペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求。

エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは

「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ!!」

などと主張。(笑)

結果、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになります。

各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになりました。

『ニューヨークタイムズ』では

「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」

と評しています。

その後のヘプバーンの活躍ぶりは言うまでもありません。

ユニセフ親善大使としての顔

1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演しました。

これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献となります。

1987年10月、ヘプバーンはオランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟から、マカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、そこでユニセフのポルトガル支部のためにスピーチをするように頼まれます。

2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功。

これがユニセフのための本格的な活動の始まりでした。

ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って

「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」

と自分から申し出たといいます。

次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かったそうです。

(なんと来日されていたのですね!! 実際に見てみたかった!!><)

マカオと東京での成功後、続々と各国のユニセフからの依頼が舞い込み、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることに。

このとき、

「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」

と言っています。

1989年4月には「ライフライン作戦」計画の一環としてスーダンを訪れています。

当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだったそうです。

さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いています。

国連の報道写真家ジョン・アイザックは

「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」

と、そのときの様子を振り返っています。

さてさて、いかがでしたでしょうか?

ここで触れたのは、ほんの氷山の一角。

まだまだ、ご紹介しきれなかった秘話に逸話、エピソードなどが数え切れないほどありますので、もっと詳細を知りたい方は、ご自身でも調べてみると面白いかも知れません。

彼女が今も尚、ハリウッドの象徴として描かれているのは、溢れんばかりの女優としての魅力や実力は勿論、その内面の美しさも手伝ってのこと。

伝説には伝説になるだけの理由があるということでしょうか。

ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペック(ローマの休日で共演)は、ヘプバーンが好きだった作家であり、哲学者だったラビンドラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読しています。

それはヘプバーンが発送した最後のクリスマス・カードに書かれていました。

「一人一人の子供は、神が人類に望みを失っていないことの証」