放射能? UFO? ついにディアトロフ峠事件の犯人が判明?

放射能? UFO? ついにディアトロフ峠事件の犯人が判明?

どうも、さかいです!

皆さんはディアトロフ峠事件をご存知ですか?

そう、かつてソ連で起きた、今なお、謎が多く残る遭難事件です。

今回は、そのディアトロフ峠事件について触れていきたいと思います。

ディアトロフ峠事件とは?

ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたとされる事件です。

事件はホラート・シャフイル山の東斜面で起こりました。

峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフの名前から、ディアトロフ峠と呼ばれるように。

当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされます。

遺体には争った形跡はなく、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていたとされます。

さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出されます。

事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が残されたままです。

当時のソ連の捜査当局は「抗いがたい自然の力」によって9人が死に至ったとし、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じました。

事件発生までの経緯

一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していました。

グループの多くはウラル科学技術学校、現在のウラル工科大学の学生か卒業生でした。

一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロのオトルテン山に設定。

そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されていましたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかったといいます。

1月25日

スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリに一行の乗った列車が到着。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロ北方にある最後の有人集落、ヴィジャイに到着。

1月27日

いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発。

しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になります。ユーディンと別れたあと、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていません。

※ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものです。

1月31日

未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置しました。

2月1日

一行はオトルテン山へ続く渓谷へと入ります。

適した場所で渓谷を北に越え、そこでテントを張ろうとしていたようですが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまいます。

彼らはやがて誤りに気づくも、1.5キロほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することに。

なお、これについて唯一の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べています。

発見時の状況

2月20日

一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送りました。

その後軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものに。

ちなみに当時は一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていました。

しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにもかかわらず、誰もこのことに特に反応しませんでした。

こうした遠征では数日の遅れはつきものだったためです。

2月26日

捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見。

テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べています。

ちなみに当時の状況はというと……

・テントは内側から切り裂かれていた。

・8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森に向かって続いていたが、500メートル進んだところで雪に覆われて消えていた。

・森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見。

・木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった。

・ヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見。

遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していたといいます。

残り4人の遺体を探すのにはさらに2か月を要します。

残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見。

ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていました。

捜査

最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められました。

検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明。

スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていましたが、これが致命傷になったとは考えられませんでした。

5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違いました。

チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していたことが判明。

ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている。

特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことでした。

当初、先住民のマンシ人が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れましたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定されます。

気温が摂氏マイナス25度から30度ときわめて低く、嵐が吹き荒れていたにもかかわらず遺体は薄着でした。

彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時に靴を履いていなかったか靴下しか履いていませんでした。

何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていました。

低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる矛盾脱衣(体内の温度と外部の気温との間で温度差が生じると、極寒の環境下にもかかわらず、まるで暑い場所にいるかのような錯覚に陥り、衣服を脱いでしまう)と関連があり、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こるのだといいます。

おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まったのだろうと考えられています。

事件の真相は?

超常現象から軍の秘密兵器実験に至るまで、事件をさまざまな原因と結びつけようとする説が持ち上がりましたが、中でも有力な説明のひとつとみなされているのが雪崩です。

この説に基づくシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、メンバーはパニックに陥ったというものです。

一行はテントを切り裂いて逃げ出ましたが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまうことに。

氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招きます。

チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所にいるにもかかわらず、助けを求めて移動し、渓谷に滑落。

彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したからだと考えられます。

一方で、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張が存在します。

さらに彼らから放射線が検出された謎。

それと遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できないのだといいます。

以下が、後ほど公開された死因審問の資料の一部です。

・一行のメンバーのうち、6人は低体温症、3人は致命的な怪我を負って死亡した。

・その周辺地域に誰かがいた様子はなかった。

・テントは内側から切り開かれていた。

・一行は、最後に食事を摂ってから6 ~8時間後に死亡した。

・キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。

・ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷はほかの人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と述べた。

・何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められた。

当局の最終的な調査結果は、全員が「抗いがたい自然の力」によって死亡したというものでした。

1959年5月、死因審問は公式に終了し「犯人はいない」と結論。

資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになりましたが、いくつかの資料が失われていたといいます。

不可解な点

研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落とした、あるいは意図的に無視したと主張している者もいるようです。

・当時12歳だったユーリー・クンツェヴィチ は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、その際、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している。

・いくつかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。

・事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロ離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告。(これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフによって証明されている。)

・ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。

・テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。

事件の考察

アメリカのドキュメンタリー映画監督ドニー・アイカーは著作『死に山』において、繰り返し起こった竜巻による強風と低周波音に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測しています。

事件現場の近くには核実験場があるものの、仮に核ミサイルによる被ばくなら通常の2倍程度の放射線量では済まず、その程度の量なら大気汚染でもあり得ることだとしています。

また、同著にて、犠牲者の眼球や舌の喪失は、野生動物による捕食や、水に浸かっていたことによるバクテリアに起因するものだと推測してます。

2020年7月13日、ロシア検察は被害者らの死亡は雪崩によるものと正式に結論づけています。

さてさて、いかがだったでしょうか?

わたし個人の意見としては、やはり雪崩説が濃厚のように思えます。

雪崩が生じ、パニックになった彼らがテントを飛び出して、その後、散り散りになって低体温症で絶命。

捜索隊が派遣されるまで数日を要しているため、その間に野生動物に舌や眼球を捕食されたと。

しかし、この説では放射線については説明できないため、この点においては未だ謎に包まれたままです。

それなら軍が何らかの形で介入しているか、はたまたUFOの仕業か。

もしくは尾ひれが付いただけなのか。

皆さんはどう推理しますか?^^

引用:Wikipedia