ゴルゴや赤井秀一も真っ青!? 伝説のスナイパー『白い死神』シモ・ヘイヘのヤバすぎる武勇伝!

ゴルゴや赤井秀一も真っ青!? 伝説のスナイパー『白い死神』シモ・ヘイヘのヤバすぎる武勇伝!

どうも、さかいです!

皆さんは最強のスナイパーと聞いて誰を思い浮かべますか?

日本では、ゴルゴ13ことデューク東郷が最も有名でしょうか。

最近では『名探偵コナン』に登場する赤井秀一も双璧をなしていますね。

しかし!

彼らを遙かに凌駕する狙撃手がいたことを、あなたはご存知でしょうか?

しかもリアルで!

今回は、そんな実在した伝説のスナイパー『シモ・ヘイヘ』の実像に迫っていきたいと思います。

シモ・ヘイヘとは?

シモ・ヘイヘ(1940年撮影。顎に戦傷の跡が残っている)

シモ・ヘイヘ(1905年12月17日~2002年4月1日)とは、フィンランドの軍人・狙撃手です。

実際には「スィモ・ヘユヘ」と「スィモ・ハユハ」の中間くらいの響きになります。

このため、しばしば「シモ・ハユハ」等と転写されることもあります。

フィンランド現地語の発音にあわせる場合、シモ・ハユハ、もしくはシモ・ハウハと表記するのが近いとされます。

愛称は「シムナ」。

スナイパーとして史上最多の確認戦果542名射殺の記録。

フィンランドとソ連との間で起こった冬戦争(1939~40年)において、主にコッラー河付近での防衛任務にて狙撃手として活躍します。

ソビエト赤軍にとって大きな脅威となったことで知られます。

所属はフィンランド国防陸軍第12師団第34連隊第6中隊、通称カワウ中隊、階級は予備役兵長。

以下に述べるのは冬戦争にて残された「シモ・ヘイヘ伝説」の一端です。

・シモ・ヘイへがいるという林の中に足を踏み入れた一時間後に小隊が全滅した。

・戦車で合流すれば安全だろうと駆け寄ったら、戦車長をシモ・ヘイへが狙撃済みだった。(狙撃済み!?w)

・わずか三十二人のフィンランド兵なら大丈夫だろうと四千人のソ連兵を突撃させたら撃退された。

・コッラー河付近はシモ・ヘイへに殺される確率が150%。一度狙撃されて死傷する確率が100%なのと、あまりの寒さに凍死する確率が50%の意味。

冬戦争終戦直前の1940年3月6日にソ連軍兵士による対抗狙撃を受け、左下顎部が吹き飛び意識を失う程の重傷を負います。

辛くも一命を取り留めますが、一週間後に意識を取り戻したときには冬戦争は終結していました。

終戦後はその功績を讃えて勲章と少尉への5階級特進が授与。

これ以降、戦場に出ることはなく、2002年に96歳でこの世を去るまでヘラジカ狩り猟師と猟犬ブリーダーとして余生を過ごしました。

(結構、最近まで存命されていたのですね)

生い立ち

ヘイヘは現在のロシアとの国境近くに位置する小さな町ラウトヤルヴィで生まれます。

軍人になる前は猟師兼農民として働いており、20歳の頃に民兵組織「白衛軍」に加入。

射撃の大会にもたびたび参加し、彼の家にはその腕前によって得た多くのトロフィーが飾られていました。

農家での仕事の昼休憩の際、他の男性陣は昼寝をするわけですが、ヘイヘだけは昼寝をせずあらかじめ森の端につけておいた目標をめがけ建物の窓から空砲で狙撃練習を繰り返し行ったといいます。

全員が起きてくるまで撃ち続けていたのだとか。

日が暮れるまでバッティング練習に明け暮れる高校球児のようで何だか好感が持てます。(笑)

いつの世も一芸に秀でた人間は人知れず努力しているものなのですね。

人物像

非常に寡黙であったと言われます。

戦果を語ることは無く、掩蔽壕に上官が入ってきて誰何しても「シモです」もしくは「ヘイヘ兵長です」くらいしか答えなかったといいます。

彼の功績が世間に知られたのは、上官のユーティライネン中尉が従軍記者に対してヘイヘ兵長の活躍を教えた事が発端だとされます。

戦後、フィンランドがソ連の勢力圏内に取り込まれ、戦争について語ることがタブーになった際、彼は沈黙を守り続けました。

ただ、フィンランド人の魂の故郷であるカレリアをソ連から取り戻したいという思いは終生抱き続けており、遺族には

「もしフィンランドがカレリアを取り戻したら、戦後に国から貰った土地は返上し、我が一族が使っていた土地を手に入れること」

という内容の遺書を残しています。

また、記念写真では立ち位置を指定された場合を除き、常に後列か他人の影に隠れて写っています。

博物館所蔵のヘイヘを含め3人で写っている一枚の写真には

『自分の姿は切ってしまっても構わない』

と直筆の手紙をつけたほどの慎ましさでした。

晩年のインタビューでは質問された内容に回答するのみでそれ以上の話はしなかったといいます。

渾名

冬戦争参戦時

白いギリースーツに身を包み、上記の活躍をしたことから、ソ連兵はヘイへを「白い死神」または「災いなす者」と呼び恐れたと伝えられます。

使用銃

モシン・ナガンM1891/30

旧宗主国のロシア帝国が開発したモシン・ナガンM1891を土台に改良したモシン・ナガンM28を使用。

ヘイヘは身長約152cmと小柄ではありましたが、120cm以上あるこの銃を手足のように自由に扱ったと言われます。

(ちなみに体の小ささは戦場で身を隠しやすいという狙撃手にとっての大きな利点)

後にその活躍から、サコ社によって調整された特製のモシン・ナガンを与えられています。

この銃には3.5倍~4倍の倍率をもつスコープを装着可能でしたが、ヘイヘはこれを使用せずアイアンサイト(照星と照門)で狙撃を行ったといいます。

その一番の理由は、スコープのレンズ(キルフラッシュ)が光を反射して敵に気取られる危険性を避けたのと、元々、猟師であるシモ・ヘイヘにはスコープ無しでの射撃姿勢が一番馴染んだ方法であったことが、その理由であると考えられます。

ちなみに狙撃の技術は入隊前に営んでいたケワタガモ猟で培われたものと言われ、これは元猟師だった赤軍のヴァシリ・ザイツェフや、アボリジニーの猟師出身者が多い現代のオーストラリア陸軍SAS狙撃兵などの経歴と共通します。

ヘイヘの狙撃は連続的な射撃と精度を両立していたと言われ、更にボルトアクション式のこの銃で狙撃訓練課程時に

「150mの距離から一分間に16発の射的に成功した」

と言う逸話も残しています。

300mの距離の中は100%ヘッドショットする事ができたといいます。

最長で450m以上の距離から敵を狙撃しました。

現在、シモ・ヘイヘが使った銃のうち一丁がカレリア猟兵大隊の史料室に保管されています。

ヘイへが活躍した冬戦争は1939年~1940年と短い期間だったにもかかわらず、その殺害数は505名とも524名とも言われ共に世界最高記録です。

更にヘイへはサブマシンガンの扱いにも優れており、殺戮の丘における戦闘ではスオミ KP/-31を使用。

短機関銃/スオミ M1931

記録では200名以上、非公式なモノも含めれば狙撃で殺害した505名よりも多くの兵士を殺害したと言われています。

これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間で残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25名のソ連兵を殺害、クリスマスの夜には殺害数の記録が138名になったとされます。

さてさて、いかがだったでしょうか。

どんな世界にも一握りの天才がいるものですが、この『白い死神』はまさにそれだったのでしょう。

寡黙だった性格も、後生の伝説に花を添えたのかも知れません。

晩年、これらの記録に対しヘイヘは、こう述べています。

「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」

参考文献:Wikipedia、pixiv百科事典